つちのこの巣穴

未確認生物による、未確認な世界の記録。

沖縄について

 先週末、大学院の同輩と飲む機会があり、彼が沖縄出身ということで沖縄料理居酒屋に行ってきた。なかなか普段できない経験だったので、後学のために書き残しておきたいと思う。

 時刻はそろそろ深夜0時に差し掛かろうとしていた。同輩を含む大学院の仲間内での飲み会に参加した後、まだまだ飲み足りないと二人で駅前を彷徨い歩いていたところ、「沖縄料理、あります!」との立て看板を発見。沖縄生まれの同輩の郷愁にかられ、入ってみる。

 入店一番、話のタネに「こいつ沖縄出身なんすよ」と店主に同輩を紹介すると、店主より先に奧で飲んでいた客の御仁が話しかけてきた。「兄ちゃん、うちなーんちゅ?」(うちなーんちゅとは沖縄の人の意。ちなみに、沖縄の言葉は全部後ろにアクセントがあり、語尾下げで読まれるとテンションが下がるとのこと。同輩談。)と彼が聞き、そうだというと、となりに来いと招かれた。

 彼は、沖縄・八重山の生まれで、現在は大阪や岐阜(!)を拠点にアーティスト活動をしている、30代半ばの男性だった。沖縄の若人が訪れたという事で、濃密な沖縄方言による沖縄トークに花が咲いた。(勿論私には1ミリもわからないが)そして話ついでに、三線で沖縄民謡を弾いて聞かせてくれた。そうこうしていると、店に居たほかの客たちも集まってきた。閉店時刻はとっくに過ぎていたが、店主もうちなーんちゅ達の大集会を楽しんでいるようで、宴はまだまだ続いた。

 沖縄と聞くと、やはり私は自らの研究分野である基地問題の話が頭をよぎる。政治と宗教と野球の話は日常生活ではするな、とよく言われるが、やはり研究者の端くれとして語らずには居られない。期せずして話題はその流れになった。彼は、自分は八重山の生まれなので基地には直接の関係はないが、と断ったうえでこう続けた。

 「沖縄人は先祖の教えを大切にする。俺が沖縄戦を生き抜いたばぁばから教わったのは、『いのちこそ宝』という思想だ。基地があろうとなかろうと、それは譲れない。自分や、自分の家族の命を脅かすものは、外国でも、基地でも政府でも許さない。」

 なるほど、凄みのある議論である。勿論それはその通りである。何も、米軍基地は事故を起こして我が国に危害を加えるためのものではない。私は、①沖縄の基地は確かに問題があるとしたうえで、②それを解決するためにはなぜ米軍は沖縄に基地を置き続けるのかを考察し、ひいては③アメリカの東アジア戦略自体を見渡すことが必要である、と自らの見解を述べた。すると彼は、以下のように語った。

 「確かに、日本政府の理屈も、アメリカのいう事もわかる。基地が沖縄を守ってくれている、という理屈も多少は理解できる。しかし、一度戦ったかつての敵国の軍隊が、自分らの島で飛行機飛ばして、それであなた方をお守りしていますよ、といってそれを信用できますか?感情的かもしれないけど、感情に従えばそれは納得できない。」

 うーん、私はうなってしまった。

 

 私が彼との議論の中で思ったのは、我々は沖縄県民に対して、日本或いは東アジアの一市民といった非常にマクロな視点で説得を試みがちであるが、それは根本的に議論の前提として不十分である という点である。沖縄県民とて、恐らく上記の様なマクロ的な視座はあるだろうが、その上位には沖縄県民としての利益と価値がある。「私たちのための利益(=国家利益)」という議論の際の「私たち」に対する内包度は、残念ながら国民一人一人に対して同等ではない。加えて、沖縄の民族的アイデンティティは国内のほかの地域とは比べ物にならないほど強い。自らを「うちなーんちゅ」と呼称し、他の地域を「内地」、「本土」と呼ぶこの表現が、沖縄特有のものであることは言うまでもない。従って、我々は、少なくとも基地問題においては沖縄を、「我々」に引き入れて議論をしてはならない。沖縄に基地があることで得られる安全保障上の利益は、沖縄に限らず日本全国(あるいは東アジアの諸外国も)享受するが、基地コストを負担するのは沖縄だけである。そもそも利害が異なるのであるから、その前提に立って議論をすべきなのだ。彼がいうには、「政府はその努力をしておらず、筋の通る説明をしていない」とのことである。これについては、政府乃至我々が考えなおす必要があるだろう。

 基地問題を含む沖縄の問題については、左右両勢力から過度にセンセーショナルな議論が展開されている。これについては、飲んでいたうちなーんちゅ達は非常に憤りを覚えていた。曰く、「沖縄のことをよく知らんなら、黙っといてくれ」。センセーショナルな論争が繰り返されるのは、我々が沖縄を真に理解しておらず、それは「我々」が沖縄を「我々」だと錯覚し、「我々」の論理で以て会話を試みようとしていることの証左にほかならない。沖縄は「我々」の中のほんのごく一部であって、我々の論理の預かり知らぬところに、彼らなりの論理があるのである。

 

 以上の様な議論をしつつ、酒を酌み交わし、時刻は午前3時半。非常に有意義な時間であった。料理のセレクトも沖縄生まれの同輩に任せたところ、やはり地元民ならではの珍しいものの取り合わせとなった。中でも豚足の塩焼きは格別で、こってりとした豚の油に塩味がよく効いていた。そんな料理にも舌鼓を打ち、私は家路に着いた。今日聞いた沖縄の現地の方の話は、日米外交の志すものにとって必須の経験だと思った。なぜなら彼らは、我々よりもとっくの昔から、基地という外交の最前線で暮らしてきたのだから。