つちのこの巣穴

未確認生物による、未確認な世界の記録。

ヨーロッパ旅行① 旅の準備編

 香港から帰国し、関空からの南海快速で久々の日本の空気を味わっている中、友人から届いた一通のラインから、私の次なる、そして人生で最大で最もスリリングな旅が幕を開けた。

 今回のヨーロッパ周遊旅行に誘ってくれたのは高校大学同期の友人のTだった。Tは、この冬同じく高校の友人で今は東京に居るOと一カ月程の海外旅行に出るとのことで、私にはその道中の一部でもいいから連れ添ってくれないかという事だった。その理由としては、①Tの海外渡航が初めてであり、ある程度旅慣れているであろう(これは自称しているわけではない)私が同行した方が安心だということ、②1か月間2人で行動を共にする中で気まずいときやどちらかが疲れる時もあるだろうから、なるべく3人でいたいということ、③古くからの友人である私との就職前の思い出作りの3つがあった。

 私としては、最初は正直乗り気ではなかった。まず金銭的な面でいえば、先般の香港旅行でそれなりの貯蓄を切り崩しており、且つ時間的にも、長期インターンをしている手前、おいそれと長い休みが取れるわけでもない。さらに言えば、友人たちと違い、後2年追加で学生をさせてもらう身分である自分が道楽をする許しを親に乞う後ろめたさもあった。

 しかし、主にTと話し合いを繰り返す中で、私の意思は徐々に変わっていった。何よりも、もう彼等と一緒に居れる時間は今しかないという思いが私に決断を迫った。私の価値観に「時間は有限、金は無限」というものがある。金は無くなっても稼げばいくらでも取り戻せるが、人生という与えられた時間は決して増えることはない。私にとって彼等との時間はそれほど価値の高いものだということを思い出したのだった。

 年が暮れる頃、旅の行程は以下のように固まった。まず出発地点はイスタンブール、空路でローマに入り、フィレンツェヴェネツィアを巡る。私はここで離脱し、TとOはそのままスペインとフランスを周遊し、東欧を南下して再度イスタンブールへ。空路で日本へ帰国する。私は離脱後、単身シチリアに飛び、その日の夜海路にてマルタに入港、空路で帰国する。TとOが成田発着、私が関空発着の為、今回は現地集合現地解散という初の試みとなった。

 ちなみに今回の旅で私がマルタに寄る日程を立てたのは、私がかつてマルタに留学していたというのもあったのだが、それに加えて高校の別の同期Nがちょうど同じタイミングで留学していて、折角イタリア迄寄るのであれば一回遊びに行きたいと考えたところなのだが、実はこの友人の方からわざわざヴェネツィアに来てくれるとの申し出があったため、私のシチリア・マルタ旅行一人旅は回避された。

 そんなこんなで、パスポートの準備、交通手段の確保、宿の手配、手荷物の支度を終え、出発前日の夜、蛍池の友人の元へと転がり込んだ。今回はフライトが11時だったので、遅くとも関空に9時着、そのためには朝7時に家を出る必要があったのだが、この時間は朝のラッシュと重なるため、なるべく鉄道は避けたかった。そこで考えたのが前日の夜に蛍池の友人宅に泊まり込み、あくる朝駅から伊丹関空連絡バスに乗るという手段だった。この連絡バスは、関空迄の交通手段としては1950円とかなり割高な部類なのだが、乗り換えがない上に必ず座れるという点で、利用シーンを絞れば非常に有用である。

 奇しくも、この日は友人宅で「クソ映画研究会」の定例会が行われていた。(クソ映画研究会については過去記事参照。)

 

tsuchinoco-burrow.hatenadiary.jp

  この日は「新春バタフライエフェクト祭り」と題し、「バタフライエフェクト」「バタフライエフェクト2」「バタフライエフェクト;インクライモリ」の3本を見たが、これがなかなかの苦痛だった。正直前者2本はクソ映画と呼ぶには失礼な程度にはおもしろさがあったのだが、最後の「インクライモリ」だけは度し難いクソであった。というのも、①話の本筋に絡まない無駄なシーンが多い、②登場人物全員が間抜けで緊張感に欠ける、③そしてなにより、何がどうバタフライエフェクトに繋がってくるのかさっぱりわからない、という3重苦なのだ。それもそのはずで、実はこの映画、「バタフライエフェクト」は邦題で、本当に本家とは全くの関係のない、ある意味タイトル詐欺みたいな作品だったのだ。いやはや、こんな映画があるのかと大変驚いた。ヨーロッパに向かう道すがら、時差ボケ回避のためにここで夜を明かして過ごす予定だったが、この映画のあまりの破壊力を前に寝ずにはいられなかった。そういう訳で、午前7時、私はヨーロッパに向け友人宅を後にした。

 

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香港旅行④

 11月22日(木) 4日目

 香港最後の朝が来た。いつものように宿の外に一服しに行くと、フロントの若いインド人はもう流石に分かったっといった様子でドアのオートロックを外す。似非日本語でおなじみのSuperdry./極度乾燥(しなさい。)の「OSAKA6 会員証な」Tシャツを着ていたので、大阪から来た我々としては話が弾んだ。

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香港空港でこの旅一番の贅沢をする。

 そんなこんなで宿に別れを告げ空港に向かう。通りで流しのタクシーを捕まえると、行きと同じく20分ほどで空港に着いた。帰りも2時過ぎの便という事で、搭乗の前に空港で何か食べようという事になった。昼はストリートフード、夜はホテルで中食というある意味でかなりストイックな旅を続けてきたので、ここらでビックイーティングをしようということになった。私はどうしてもガチョウのローストが食べたかったので、即座に購入。さらに高級食材のトリュフがかけられた天津飯もいただいた。この天津飯、卵がふわふわで非常に美味しかった。

 そして出国審査を終え、我々は制限エリアへ。マストであるタバコの購入を済ませ、飛行機に乗り込む。機内では図らずも爆睡してしまい、起きたらほぼ日本に着いていた。南海・JRを乗り継ぎ、梅田へ。ヨドバシの8階で久しぶりの日本食を頂くと、なぜだかほっとする感覚があった。そして阪急にて友人たちと別れ帰宅。4日ぶりの我が家でゆっくりと寝ようと思ったちょうどそのとき、玄関のベルが鳴る。ドアを開けると、立っていたのは、高校の同期で、同じ大学に通う友人Tだった。

「この冬一緒にヨーロッパ行かへん?」

帰国後真っ先に聞いたその一言で、私の次なる旅は幕を開けたのであった。

(ヨーロッパ篇、近日公開)

 【まとめ】

①香港の評価

・都市としての魅力 3.0

・ 旅行のしやすさ 4.0

・治安、衛生、物価 5.0 

  所謂アジアの国際都市としての知名度が非常に高い香港。多くの外国人が行き来する国際都市だからこそ、街全体での外国人の対応は手慣れたものだと感じた。英語がほぼ通じる点、交通機関がかなり発達している点などはもちろん、アジアの都市としては非常に治安や衛生環境もよく、更に狭いエリアに観光地が集中している点でも、海外旅行に慣れていない御仁でも十分に楽しめる街だと感じた。

 一方で、物価の高さは気になるポイントだった。特に食事に関しては、我が国の観光地で目にするレベルか、或いはそれ以上になると思われる。香港といえば高級中華と考えられる御仁も多いだろうが、その際の高級は日本基準の高級である場合が多いことに注意したいところだ。また、観光という点で見れば、香港はいささか役不足かもしれない。というのも、香港で行う主なアクティビティといえば、食事・買い物・エステがメインであり、所謂見て歩いて楽しむ様なスポットは意外と少ないためだ。グループでの旅行、或いは女性同士の旅行にはいいかもしれないが、一人旅やバックパッカーには向かないかもしれない。 

【旅の感想と反省】

 今回は久しぶりの個人手配・海外でいささか緊張していたのだが、細かなトラブルもなく旅行を楽しめたので良かったと思う。今回、私は自身初となるプリペイドSIMを日本で購入し使用した。以前高校生の時にハワイに行った際、ポケットWIFIを借りたことがあり、今回も借りようか考えたのだが、①盗難リスク②価格③単独で通信を維持できる(同行者とポケットWIFIを共有すると単独行動ができない)の3点から、購入を決断した。価格はアマゾンで600円ほどで、96時間4G が使い放題だった。やはり海外という、言葉も土地勘もないところでのネットの重要性は、国内の比ではない。次回の旅行にもプリペイドSIMはマストだと感じた。

 一方で今回の反省点としては、ひとえに情報収集の不足があった。このとき私は平日のインターンで忙しく、旅行の下調べと手配はほぼ同行者に丸投げになっていた。結果、ヴィクトリア・ピークでの行列に巻き込まれた一件など、無用のハプニングに巻き込まれてしまったのだった。海外旅行にはハプニングがつきもの、笑い飛ばせられなければ行かない方がよいというのが私のポリシーだが、回避できるトラブルは回避したい。そのための念入りな下調べは必ず自分の責任で行わなければならないと感じた次第だった。

 以上、4篇に渡って私の香港旅行の記憶を諸君と共有してきた。海外旅行に行く際の一助となれば幸いである。又、私自身も今回自分の旅路を文字に起こすという初の作業をしてみて、旅の記憶が鮮明に思い出す事が出来たのを実感している。これから旅をした際にはこうした旅行記を書き上げるようにしたいと思う。

 最後になったが、今回旅を共にしてくれた大学の同輩のH、S,、Mには御礼を言いたい。私の持論だが、旅は人の本性が出る、だからいい旅とは気の合った仲間としかできない。その点でいえばm、今回斯くのように良き旅だったと思えるのは、単に彼等が旅を共にしてくれたからに他ならない。卒業を迎える彼等には、人生という大きな旅が待っているが、それが彼らにとって”良き”旅であることを祈っている。

 さて、今回は少々長くなってしまった。ここまで読み進めてくれた読者の諸君にも感謝を述べつつ、このあたりで筆を置きたい。ご高覧、感謝する。

 

香港旅行③

 11月21日(水) 3日目

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尖沙咀のフェリーターミナルとフェリーから見た香港。

 この日はマカオへショートトリップすることに。香港とマカオは湾を挟んで反対側にあり、フェリーで約1時間ほどの距離にある。マカオ行きにフェリーは尖沙咀東岸と上環の2つの港から出ている。尖沙咀の宿を出た我々は勿論前者のフェリーターミナルへ向かう。ターミナルへ着くと、フェリー会社のカウンターの前でチケットを手売りする若者がおり、甚だ本物の業者なのか疑わしかったが、当のフェリー会社の目の前で売っているからまあ大丈夫だろうと判断し、とりあえず往復のチケットを購入した。結果すんなり乗船できたので問題はなかったが、ここで往復のチケットを購入したことが後に大きなハプニングを生むことになる。

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マカオ市街中心部に立つホテル・リスボア。

 波に揺られて約1時間半、フェリーはマカオ・タイパフェリーターミナルへ。ホテル業者が運営するシャトルバスでマカオ中心部へと向かう。知っての通り、マカオは東洋のラスベガスと呼ばれるほどカジノリゾートが発達しており、その運営会社は空港や港からホテルやカジノ迄のシャトルバスを運行している。行きの便は誰でも無料で乗れるが、帰りの便はリゾートの利用客しか使えない。実に合理的な制度だ。

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コロニアルな香り漂うセナド広場とモンテ砦。

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モンテ砦からはマカオ市内が一望できる。


 マカオで最も有名なカジノであろうカジノ・リスボアを横目に、われわれは世界遺産であるセナド広場へと向かう。マカオは1887年から1999年迄ポルトガルの海外領土であった。セナド広場含む一帯には、植民地時代の名残を示すコロニアル建築が散見される。広場から少し歩くとかつてポルトガルの要塞だったモンテ砦が見えてくる。高台にあるため、マカオの街並が一望できた。

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カレーおでん。お伝というよりモツ煮込み。店内ではモヤさまが放送されていたが、反応したのは私たちだけだった。

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梅田では行列必至の貢茶のタピオカミルクティーも至る所にある。

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マカオ名物のポークチョップバーガー。




 再び広場に戻り、我々はマカオのストリートグルメを満喫することに。まず一つ目はカレーおでん。実はポルトガル対日貿易の経由地としてマカオは昔から我が国との結びつきが強かった。そんな中、日本のおでんが伝わり、同じくポルトガルの海外領土であったインドのゴアから伝わったカレー味が融合したという、ポルトガルのアジア航路を舌で味わう逸品だ。続いてはポークチョップバーガー。これは豚の一枚肉をパンで挟んだ素朴な味わいだ。長崎で食べた角煮饅頭に近いものを感じた。ちなみに、マカオと言ったらエッグタルトと思われる御仁もおられるだろうが、生憎前日に香港で食していたのでこの日はパスした。

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ホテルの中に入るとそこはヴェネチア

 タイパ島に移り我々は新興のカジノリゾートが密集するエリアに向かう。そのうちの一つ、ヴェネチアン・カジノリゾートには、何とホテルの中にヴェネチアを模した運河があり、ゴンドラで周遊できる設備があった。乗船すると、愉快な船頭が小気味よい歌を口ずさみながら、手慣れた手つきで舟を漕ぐ。約15分で船旅はおわり、我々はヴェネチアの香り漂うリゾートから出てきた。その後、お持ちかねのカジノを満喫し(手賭けはミニマムベットが大きすぎて断念した。結局マシンでちまちまと稼いでたら1000円ちょい儲かった。正直パチンコとそんなに変わらない。)、我々はマカオを後にすることにした。そして事件は起こった。

 前述したとおり、カジノ行きのシャトルバスは、それなりの買い物をしなければ帰りは乗せてくれない。仕方がないため、路線バスで港迄行くわけだが、カジノでぎりぎり迄遊んでいたため、フェリーターミナルに着いたのは船が出る約20分前だった。マカオと香港は、いくら近いといっても全く違う行政区であるから、行き来するためには出入境審査が要るのだ。20分前でも結構ぎりぎりである。

 だが港に着いた我々はさらなる悪夢に見舞われた。なんと、フェリーが出る港が違うというのだ、というのも、我々が今いるのはマカオ半島側にあるマカオ・フェリーターミナルであり、そして乗る筈のフェリーが出港するのは先程迄居たタイパ・フェリーターミナルだったのだ。抑も我々は、自分達がマカオに到着した際の港を勝手にマカオ・フェリーターミナルだと思い込んでいたのだが、実はタイパの方に着いていたのだった。チケットの券面を見れば分かる事なのだが、全く思い込みとは怖いものである。我々は一縷の望みをかけてタクシーに飛び乗った。ここでもドライバーの腕が炸裂し、何と5分くらいでタイパに着いた。時間ぎりぎりで我々は出国し、無事フェリーに乗り込んだ。ある意味でカジノ以上にギャンブルな賭けだった。

 フェリーに乗った後もハプニングは続く。海は大時化で、海なし県・岐阜の民である私は完全にノックダウン。気持ち悪さを堪え下船すると、降りたのは我々の住まう九龍半島とは反対側の香港島・上環だった。へとへとになりながら地下鉄に乗り、この日も宿に着いたのは日付が変わった後だった。当然夕飯を食べに行く気力は無く、香港最後の晩餐はマックになった。(ここ数カ月マックを食べていなかったが、期せずしてこの旅行ではマックを二度も食べることとなった。)

(香港旅行④に続く)

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ボロネーゼバーガーという期間限定商品が非常にうまかった。

 

香港旅行②


 2日目 11月20日(火) 

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何かよくわからない肉入りのピータン粥。

 早朝の静寂が、ラッシュの雑踏と喧騒でかき消され始める午前7時、我々は宿を後にし、街へと繰り出した。お目当ては粥だ。香港では、中華粥がポピュラーな朝食で、我々の向かった店は日々鎬を削る香港の粥屋の中でも超が付く有名店だった。私はピータンと何かよくわからない肉が入った粥を選択。海外に来たときは、旨くてもまずくてもその土地でしか食べられないものを食う、というのが私のセオリーだ。癖はあるが、非常に優しくまろやかな味わいだった。

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尖沙咀から見た香港島

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魚のつみれ入り麺。付け合わせは青菜の煮びたし。だいたいこれで900円なので地味に高い。

 朝食を終え、尖沙咀東岸の免税店を散策した後、ちょっと早めの昼食に。中華といえば麺料理という事で、麺料理の有名店にやってきた。私は魚のすり身が入った細麺を選択。ラーメンに代表される日本の麺料理と比べるとボリュームは小さく、小腹を満たすのに丁度よいサイズだ。味もあっさりとしていて食べやすい。香港は広東料理の影響が強いからか、台湾やシンガポールといった他の中華圏での食事よりも、全体的にさっぱりとした味付けだと感じる。

 さて、昼食を済ませ地下鉄で香港島へと向かう。香港の地理について明るくない諸君も多いと思うのでここで説明する。普段我々が香港と呼ぶ地域は主に九龍半島香港島、それから空港やディズニーランドが存在するランタウ島の三つに大別される。都市として発展しているのは、九龍半島とその香港島側の沿岸で、従って観光もそのあたりがメインとなる。

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1200円相当の柘榴ジュース。木の根元にあるのは柘榴の搾りかすとのこと。

 話を戻そう。上環(ジョウワン)で地下鉄を降り、寺社や出店を散策していると、美味しそうなフレッシュジュース屋を見つけたので休憩がてら寄ることに。柘榴ジュースを頼んだのだが、これがなんと1杯90HK$(1200円)と高かった。ぼったくられたんじゃないかと勘ぐっているのが伝わったのか、店の女性が柘榴の実が高い(から正当な価格だ)という旨の説明をしてきた。(後でスーパーで柘榴の価格を確認すると、ジュースの価格も強ち法外ではないことが分かった。下手な詮索をしたことをお詫びしたい)会話次いでに、この女性には日本語交じりの片言の英語で、いろいろな観光の指南もして頂いた。ジュース一杯にしては高かったものの、現地情報と束の間の休息も含めて、有意義な90HK$だった。

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中環の様子。

 女性から教えて頂いた通り、我々は土産物を買いに中環(セントラル)へ。中環は香港一のビジネス街で、オフィスやホテルが立ち並ぶ。都市の立体構造に四苦八苦しながらお土産屋を探し歩き、その後も坂の多い香港の街を歩き回った。空の色が青からオレンジ、そして紫へ変わり始めた頃、我々は所謂「100万ドルの夜景」を見る事が出来る観光スポット・ヴィクトリアピークに向かった。そして悲劇は起こった。

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10万ドルという名は決して大袈裟ではない。

 トラムの駅で我々が目にしたのは夥しい数の人の頭だった。ヴィクトリアピークは、香港島に聳える山の頂にある展望台で、そこまで行くにはバス・タクシーのほかにピークトラムというケーブルカーが一般的だ。しかしこのピークトラム、実は夜景を見る時間帯は混雑必至で、長いときでチケットを買うだけで3時間待ちにもなるのだ。既に1日中街を歩き続け、疲労困憊だった我々には、この長蛇の列は大変に堪えた。結局、トラムの山麓駅に着いてから頂上に上がるまで2時間以上を費やした。そんなこんなで苦労した我々だったが、その分燦然と輝く香港の街明かりが、より眩く見えたような気がした。

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香港島から尖沙咀へはフェリーを利用した。これは船内から見た香港島

 バスとフェリーを乗り継ぎ、尖沙咀のホテルに着く頃には、既に日付が変わりかけていた。夕飯の算段もしていたが、各々そんな気力もなく(私は実はまだ食べに繰り出すのも吝かではなかったが)ホテルの中で軽く摂ることにした。基本的に、海外で食べる米飯に私は大して期待をしていないのだが、同じ米文化圏だからとこの日は海外旅行では珍しくコンビニでレトルトのどんぶりなんてものを買ってみた。空腹に耐えて歩き回った末の食事。部屋に戻ると私は温めたどんぶりを思い切り掻き込んだ。芯の残った米の何とも言えない食感だけが口の中に広がった。米は日本で食うに限ると、改めて悟った瞬間だった。

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この日の夕飯はセブンイレブン。米が恐ろしくまずかった。

 (香港旅行③に続く)

 

香港旅行①

 新年明けましておめでとう。読者の諸君らはこの年末年始をいかが過ごしただろうか。私はというと、例年のごとく実家でこたつに潜りながら、何とも生産性の低い正月を過ごしていた。そんな穏やかな年越しとは裏腹に、平成という一時代が終わる大変革の2019年が始まった訳だが、今年も読者の諸君にとっては変わらぬ良い年であることを祈っている。

 さて、前置きはこのくらいにして、新年一発目の記事を何か書こうと考えたのだが、そういえばまだ昨年11月に大学の同輩らと行った香港旅行について記事にしてなかったと思い、この特別な記事にするにはちょうど良いと考えたので、今回はこちらについてしたためたい。

1日目 11月19日(月)

 阪急・JR・南海を乗り継ぎ、正午過ぎに我々は関空に降り立った。空港のマックで食事をしていると隣に座ったシカゴからのご婦人から話しかけられた。今回の旅の同伴者には国家公務員総合職内定者(いわゆる官僚)がおり、たじろいて居た英語弱者の私を尻目に流暢に会話していて、やはり官僚は違うなと素直に感心してしまった。ご婦人に別れを告げ、保安検査を抜けて出国。関空からの出国は今回で5度目なので、既に勝手知ったりといったところだ。

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香港エクスプレスの機内から見た風景。

 今回使った航空会社は、「香港エクスプレス」というLCCだった。関空にはLCC専用の第2ターミナルがある(ちなみにこのターミナルは設備もLCC相応のレベルでなかなか仰天する)が、今回はレガシーキャリアも乗り入れする第1ターミナルからの出発となった。香港エクスプレスはLCCであるものの、シート間隔はそれなりにあり、窮屈という事は無かった。勿論、映画や音楽などのエンターテイメントはないが、飛行機に乗ったら十中八九爆睡する私にとっては大した問題ではなかった。

 大阪を発って約5時間、我々は香港国際空港に降り立った。入国し無事荷物も受け取ると、我々はタクシー乗り場へ。香港では、行先ごとにタクシーの車体が色分けされている。市街に向かいたい我々は赤色のタクシーに乗った。このタクシーの運転手が凄腕で、ガイドブックで3,40分と書かれていた道のりを20分程度で爆走した。

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美麗都大廈の入口。

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別日に撮影した美麗都大廈の入口。

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ゲストハウスのバスルーム。便器の真上にシャワーが付いている。ピンクと緑の液体は、どちらがシャンプーでどちらがボディソープなのかわからなかった(私はピンクがシャンプーだと解釈して使った)



 ホテルは香港一の繁華街・尖沙咀(チムサーチョイ)にあり、美麗都大廈といういかにも香港という佇まいの雑居ビルの一角に位置していた(バックパッカーならご存知だろうあの悪名高い重慶大廈の1ブロック隣だった)。ターバンを巻いたインド系のフロントにキーを貰い部屋に入る。部屋は狭いものの、清潔に保たれおり、シャワールームとトイレが共通(何を言っているかわからない読者は写真を見て想像してほしい)であることを除いては満足できる宿だった。

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倫敦大酒楼での食事。

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香港名物のブルーガール・ビール。


 ホテルに荷物を預け、夕食を食べに地下鉄で旺角(モンコック)へ。倫敦大酒楼というレストランは、安価な価格で本格的な点心を楽しめることで日本でも有名だそうで、私の大好きな台湾でいうところの鼎泰豊に相当するようなところだ。日本人客が多いのか、我々を日本人とみるや否や、すぐに日本語メニューを持ってきた。点心とともに頂いたのはブルーガールという香港の地ビールだ。苦味が抑えられており、ビールが苦手な日手でも飲みやすい口当たりだと感じた。

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許留山という甘味チェーンで休憩。

 夕飯を終え、旺角の夜市をうろうろしていると、おいしそうなシェイクジュース屋を発見。店員のおすすめを聞き、私はマンゴー・アロエ・ココナッツのフレーバーを選択した。外国の甘味というのは、兎角甘さが強すぎて好きになれないものだが、これはすっきりとしていて美味しかった。ここ香港では、電車や駅での飲食が禁止なので、飲み干してから地下鉄へ。ちなみに香港には街中いたるところに灰皿付きのゴミ箱があり、私にとっては非常にありがたかった。

 とここまで順調に進んでいた我々の旅行だったが、ここにきてトラブルが発生した。地下鉄を降りて、来る時に入ってきたはずのK11の出口から地上に出ると明らかに違う場所へ。時間は午前0時に差し掛かり、怪しげな男らがたむろしていたので一旦地下鉄構内へ引き返す。よく地図を確認すると、K11というのは出口に直結しているショッピングセンターの名前だということがわかった。無事元来た出口にたどり着いたと思ったら、今度は夜遅かったために、地上に続くエスカレーターが封鎖されておりまたも困惑。幸いにも隣のエレベーターで地上に上がる事が出来、事なきを得る。しかし今度はホテルに続く雑居ビルが封鎖されており、再度困惑。大通りに面した別の入り口に向かうと、ビルの管理者らしきインド系の男性にパスポートを渡すよう求められる。真夜中過ぎの繁華街で他人にパスポートを渡すなど言語道断だが、背に腹は代えられない。ビルに入れてもらうため我々は男の求めに応じた。

 そんなこんなで我々が宿にたどり着いたのは午前1時前。時差を考慮すると2時前まで街を練り歩いていたわけだから、もうへとへとだった。シャワーを浴びると体と瞼はみるみる重くなり、ものの30分で私は深い眠りについた。

(香港旅行②に続く)

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香港の夜は眠らない。

 

神戸はしご酒チャレンジ

 日に日に短くなる陽の光と引き換えに、冷たさを増した夜風が身を包む今日この頃、読者の諸君らはいかがお過ごしだろうか。街も凍てつくこんな季節に、ふと暖かな酒場を見つけたならば、入らざるを得ないのが人の性というものだろう。という訳で、先日私は、神戸はしご酒チャレンジという企画を行った。今回はその様子についてお伝えしたい。

 まずはしご酒チャレンジについて説明しよう。これは、テレビ番組「笑ってコラえて」内の企画である「ハシゴの旅」に着想を得て、私が友人と二人で始めたものである。一定の時間、一定の金額で酒場をハシゴしまくるという、いたってシンプルな企画である。長時間、限られた資金で、且つ街を徘徊し続けるという点で、ただの飲み会とは違う、なかなかアクロバットなスポーツとなっている。今回は昨年に引き続き、神戸・三宮にて2回目の開催となった。本家をリスペクトして今回は夜8時から、次の日の阪急の始発がある5時まで、約9時間のハシゴタイムを設けた(これの設定が後々大参事になるとはこのときメンバーの誰もが気づいていなかった)。また、今回は新メンバーとして、私と友人のほかに友人の彼女も加え3人でのハシゴとなった。こうして男女3人、総予算15000円、約9時間に及ぶハシゴの旅が始まった。

 待ち合わせの阪急三宮からまず一行が向かったのは、阪急三宮構内にあるスタンドバー・Gontaだ。

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 実はこの店、前回のチャレンジにおいて一番最後に来た店なのだ。前回のラスト店、という事で、初陣にはちょうど良い店であった。生中1杯190円と名物のビフテキ500円で、テンションは一気にMAXに。喧騒の中で賑やかに飲む。そんなスタンドである。

 さてGontaを後にし、一行は元町商店街へ。お目当ての店の隣にもう一軒立ち飲みが構えている。私たちの同い年ぐらいの(後で同い年だとわかるのだが)看板娘さんに話を伺うと、何とできてまだ3カ月とのこと!道理で内装がピカピカなわけである。しかし、娘さんのトークと常連の掛け合いは、まるで何十年も通ったなじみの店の様な雰囲気を醸し出している。冷えた中瓶と暖かな笑い声が絶えない、そんな立ち飲みであった。

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 元町から線路を抜け山手へと向かう。新神戸に、陽気なラテン店主の営むメキシカン・駄菓子バーがあったはずなのだが、生憎この日は閉まっていた(この店の話はまたいずれ話したい)。春日野道へ向かい、今回の旅で最もリピート率が高いだろうと思われる「のぞみ青果」さんを訪れた。

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 店名からもわかる通り、元は八百屋だったこのお店は、今でもその名残としてキャッシュオンのトレーに野菜かごを使っている。店内は、暖かな光と素朴な内装が何とも言えない居心地の良さを作り出している。そして、何といっても驚くべきなのはその値段だった。特にフードは破格で、おでんはタネ3つで100円という仰天価格だった。ちなみにこのおでん、この値段とは思えないほどしっかりと味が染みていて、友人の彼女はしきりにやばいやばいと連呼していた(普段はバカっぽく見えるので「やばい」は意図的に使わないようにしているとの事)。

 さてさて、そんなこんなで夜も更け、我々は三宮へ戻ってきた。といっても実は、ここからが本当にきつい時間だった。前日も朝6時に起きてインターンに出ていた私は下より、ほかのメンバーもそろそろ疲れが見え始め、口数もまばらになってきた。しかし、そんな私たちの目が醒めるような出来事がこの後あった。諸般の事情で店名は伏せさせていただく。

 午前2時過ぎ、私たちは三宮のある餃子屋へと入店する。注文を済ませ、彼女がお手洗いに向かうと、ふと私は店内を見渡した。というのは、店内の異様な雰囲気に気が付いたからだ。店の奥にいたのは、スーツを着た、10名程のスキンヘッドの男性たち。皆そろいもそろって頭を剃り上げている。最初は僧侶の集まりか何かかと思ったが、僧侶が夜な夜なこんな時間に宴会を開くだろうか?皆スーツ姿なのも不自然だ。そして何より、見るからにガラが悪い。そこまで考えて、私は考えるのを辞め、目を合わさないように注力した。私の勘が、彼らをヤの者だと言っているような気がしたのだ。ほどなくして、彼等は店を後にした。酔って丸まった背筋が久々に伸びた気分だった。

 そんな怖い思いもあったが、それ以降我々は順調にハシゴし、明け方5時、今回のチャレンジは終了した。トータルで9軒、総費用14889円だった。

 私は、酒場とは人の心が形になる場所だと思う。酒を飲んでリラックスすると、ついつい本音が溢れだす。友人と語らい、一人で思考に耽り、スポーツやゲームで時に盛り上がることで、私たちは、目に見えない心を、目に映る思いに変えている。酒はその為の魔法の道具といったところだ。不景気癖が身についてしまっている我が国だから、ちょいと立ち飲みで一杯、という事もなくなりつつある。しかしはしご酒を通じて得られる経験は何物にも、代えがたいものであるから、普段は宅飲み派の諸君も一度やってみてほしいと思う。

 では今回は、このあたりで筆を置きたい。ご高覧、感謝する。


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毎回の定番となった飲み代封筒。この中に、予算を入れて管理する。

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今回チャレンジのお供をしてくれた友人カップル。真ん中は私。

コンビニバイト

 至極個人的なことで恐縮だが、先日3年7カ月続けたコンビニでのアルバイトを退職した。今回は、自分の中の一つのけじめとして、この足掛け4年に及ぶコンビニバイト生活を文字にしたためたいと思う。

 大学1年の5月、そろそろ大学生活にも慣れ、バイトを始めようと思った。カフェやカラオケ、家庭教師や塾講師なんかも考えたが、ひとまずコンビニバイトから始めようと考えた。コンビニなら、接客から棚卸まで幅広い仕事ができるし、何なら高校生でも働ける環境だから、初めてのバイトにはちょうどいいと感じたからだ。高校生の頃から、大学時代は家庭教師のバイトをすると決めていた(これは漫画「めぞん一刻」の影響だ)ので、当初は半年くらいでコンビニバイトとは早々おさらばするつもりだった。

 そんな舐めてかかったコンビニバイトだったが、いざ始めてみると意外と忙しく、難しいことに気が付いた。コンビニの仕事というのは、一つ一つの仕事の量と質はそんな大したことはない。レジを打つ、揚げ物や中華まんを作る、商品を補充する、宅配便を受ける、正直どれもサルでもできる仕事だ。しかし、そのすべてを同時並行で、且つ滞りなく進めるとしたらどうだろうか?コンビニバイトは、いわば究極のマルチタスクだと思う。半年経って、ようやく仕事を一通り覚えた頃には、折角覚えた仕事のをここで辞めるのは勿体ないと感じるようになっていた。

 人間関係も良好だった。店のオーナーは、代々の個人商店をコンビニに鞍替えした経営者で、よく自分の哲学や経歴をシフト上がりに聞かせてくれたものだった。昼勤のパートのご婦人で、自らを私の「大阪の母」だと言って、気遣ってくれる方もいらっしゃった。彼等は、仕事だけでなく大学生活であった様々な機微を相談できるいい大人だった。それから、私自身も、大学や高校の知り合いをコンビニに勧誘して回った。一時は、深夜シフトのバイトメンバーの4分の3は、高校同期という、半ば藩閥みたいなものを形成した(そのせいで各々が帰省する盆や正月は、深夜のシフトに入れる人間が誰も居らず苦労したものだった)。結果、私は計6人の友人をコンビニへとリクルートした。こういう訳で、コンビニは私にとって非常に居心地の良い場所になっていった。

 振り返ってみると、私がこのバイトを続けてこれたのは、こうした人間関係によるところが大きいと思う。なかなか職場に馴染めずにバイトを転々としている友人の話を多く聞く中で、これほど長くバイトを続けられたのには感謝しかない。勿論、長くバイトを続けたが故に得られたものも多かったと思う。接客業、特に、老若男女、貧富や洋の東西をも問わない幅広い層の客が訪れるコンビニは、社会というものを知るのに最適な労働環境だったように思う。

 何だ此奴と思う客もいた(代表的なのは、商品をビニール袋に入れていいか尋ねると「要らん!」と怒鳴る客で、私は此奴をひそかに「イラン人」と呼んでいた。なおイラン・イスラム共和国に対する政治的意図は何ら含まれていないことをお断りしたい。)が、その分良いお客も多かった。この機会だから、最後にそのうちの一人として、「五円玉おじさん」のことを書き記しておきたい。

 毎回ショートホープを4つ買って、おつりを5円玉で渡すようにお願いする小柄な中年男性のお客がいた。私は彼の事を5円玉おじさんと呼んでいた。(余談だが、同じ時間帯に同じ商品、特にタバコを買っていく客は、いい悪いは別として案外店員に顔を覚えられるので、もしそれが気に食わない喫煙者の諸君がおられるならば、定期的に買う時間や銘柄や店を変えることをおすすめする。)或る時、シフト前に店前でタバコを吸っていると、5円玉おじさんが一服して居られた。喫煙者特有のタバコミュニケーションというやつで、おじさんと私はいろいろと言葉を交わしていった。最初は天気の話から始まり、次に会った時は野球、その次は政治の話、そして何回か目になって、おじさんは自分の身の上について教えてくれた。

 おじさんは大阪市内の町工場に勤めている。窓枠に使う蝶番を作る会社だ。おじさんの仕事は発注元からの指示を受けて、蝶番の図面を起こすこと。窓枠メーカーの指示があれば、朝でも夜でも図面を仕上げて納期までに製品を納入せねばならない。おじさんによれば、建材の納期は、ひとたび遅れると、建築現場全体の工程が止まりかねず、そのための追加人件費などを求められることもあるそうだ。中小企業が、そんな額の補償を吹っ掛けられてはひとたまりもない。だからおじさんはいついかなる時でも図面を描き続けなければならないのだ。

 愚痴を言うようにここまで語って、それからタバコの火を靴裏で消し、しかし先ほどとは違うトーンでおじさんはこう続けた。

「でもな、兄ちゃん。それが仕事やねん。一度メーカーの納期を無理や言うて跳ね除けたらもう仕事なんかあらへん。商売は信頼やからな。きつい納期課してきよって、頭来る時もあるけど、そんな時ほどやったろかって気持ちになって仕事できんねんな。」

 私は今でもこの言葉が忘れられない。ただ仕事に愚痴をこぼすのではなく、そこに美学を見出すおじさんを、素直に尊敬したいと思った。将来、私がいかなる職に就くかわからないが、この在りし日の5円玉おじさんの言葉を忘れないでいようと心に誓った。

 今回は、少々記事が長くなってしまった。しかし、これでも私のコンビニバイトの記憶は書き足りない。当たり前だ。4年間も同じ駅前の50坪程度の敷地にいたのだ。思い出が尽きるはずがない。これからも、折を見てこの記憶は書き残していくだろうが、今回はこのあたりで筆をおくこととしたい。ご高覧感謝する。